コスト削減 あるじの伝書

時代の先端をいった二宮尊徳の事業運営

二宮尊徳(金次郎)像あるじの伝書

2018年度の道徳の教科書に、年配者なら誰もがご存知と思われる、薪を背負って書物を読む二宮尊徳(金治郎)が登場しています。
「生き方そのものが模範である」ことがその理由になっていますが、道徳ですから尊徳が成し遂げた農業に関する数々の偉業には詳しく触れられていません。

尊徳は今風に言えば「農業ビジネス」の事業運営を儒教の教えに基づき江戸時代に確立した人と言うことができます。
2024年度から1万円札に登場することになった「渋沢栄一」は、日本資本主義の父と呼ばれています。
その渋沢栄一は尊徳の儒教に基づく事業運営に共鳴し、その思想を受け継ぎ「道徳経済合一説」を唱え、実際の事業展開のプラットフォームとしていました。
尊徳が江戸時代の末期に近づいた1787年から1856年までの生涯で成し遂げた農業事業運営の数々はまさしく時代の先端を行っていると言えるでしょう。
その意味で、尊徳は日本資本主義の祖父と呼ぶ人もいます。
因みに尊徳も1946年(昭和21年)に日本銀行1円券の肖像画になっています。

現代は江戸時代と異なり多種多様な業種が誕生し、経営者の皆さまは困難な事業運営を要求されていると思いますが、尊徳が困難を克服しながら、時代の先端をいった農業事業運営を振り返ることにより、現在の事業運営改善へのヒントに繋げていただければと思います。

尊徳の農業事業運営のバックボーンとなった儒教

尊徳の時代の先端をいった農業事業運営を振り返る前に、おさらいの意味でそのバックボーンになった儒教について説明していきます。
ご存知の通り、儒教は約2500年前に中国の思想家で哲学者でもあった「孔子」が唱えた道徳理論でした。
その教えを広めたのが弟子の「孟子」「荀子」「朱氏」でした。孔子の教えをまとめて【論語】として完成させました。

この儒教は中国で生まれたにも関わらず、時の経過とともに社会主義体制に移行して、儒教が否定されたり、排斥されるようになります。
しかし、長い間その教えに従って生活してきた中国人にとっては、自己のアイデンティティを否定されていることになると考えられるようになり、21世紀になって経営上の倫理として見直される傾向にあります。
中国から朝鮮半島に伝わった儒教は、人々に広く受け入れられ、最も繁栄したと言えます。
李氏朝鮮王朝が儒教を国教に指定したことが、その背景にあります。
来日した韓国の人と会食をすると、目上の人よりもお酒は先に飲まない様子を目にすることが多々あることから、儒教の教えを現在も守っていることが伺えます。

日本に儒教が伝わったのは、朱氏が確立した「朱子学」でした。
朱子学は孔子の教えを更に発展させた理論で、徳川幕府により「正学」として採用されました。
しかし、人材育成プログラムをメインとしており、知識階級の思想に影響を与えたものの、中国や韓国のように人々の生活の中にまで入り込むことはありませんでした。
このような状況の中で、儒教の教えを基本として時代の先端をいく農業経営策を実行した尊徳の先見性を知ることができます。

尊徳の立像が何歳の時のものかは明確ではありませんが、読んでいる書物は像に刻まれている記録を確認すると、儒教の経典【大学】となっています。
【大学】の教えは、「修身・斉家・治国・平天下(身を修め・家庭を整え・国を治め・天下を平和に導く)」が基本になっております。

この教えに基づいて尊徳は『報徳思想』を広めるようになります。

報徳思想の考え方

『報徳思想』の基本
 ●「至誠」・・・何事にもまごころを尽くすこと

次いで「勤労」「分度」「推譲」を説いています。
 
 ●「勤労」・・・働く時は社会貢献の成果を上げることを旨として、物事をよく観察・認識すること
 
 ●「分度」・・・節度を持ち立場や状況に応じた生活を送ること
※このように書かれていると、収入がない人はどうするのかということになりますが、収入がある場合は、計画を立て、節約に努めれば必ず余剰が生まれるので、それを無収入の人に生活資金として提供する互助の精神も含まれています。

 ●「推譲」・・・「勤労」「分度」を実行することで余剰や余力が生じた時は、その一部を子孫や社会に譲ること。

以上のような報徳思想を実践することを「報徳仕法」と呼び、報徳仕法をバックボーンとして時代の先端を行く農業経営策を遂行するととともに、国を治め国民を救う意味の「経世済民」を目指しました。

尊徳が実行した農業の事業運営のポイント

1 事業活動をプロジェクトと考える

尊徳は現在の神奈川県小田原市栢山(かやま)で百姓の子どもとして生まれました。
当初は比較的裕福でしたが、父親に散財癖があるために借金が増え、次第に貧乏な生活を強いられるようになります。

12歳の時には父親が病気になり、酒匂川堤防工事の夫役労働を父親に代わって務めることになります。
12歳ですから大人ほどの労働をこなすことはできません。そのため夜に草鞋を作り献上しました。
チームで実施している作業で自分の労働能力が十分でないことを認識して、別の形で補おうとしたのです。

近年は事業活動でプロジェクトチームを作って実行する企業が増えていますが、若い人はITに精通している人が多いため、できるだけ多くのセクションから横断的にピックアップしてプロジェクトを編成し、検討課題だけを与えて自主的に検討してもらうことで、様々なアイディアが出てくることが期待できます。
また、他のセクションが実施している業務を知ることができて一体感も醸成されます。

2 逆境を前向きに捉え、生産性を高める 

尊徳が16歳の時に母親が亡くなり、本家の祖父(伯父)の家に身を寄せます。
祖父は締まり屋でしたので、菜種油を使うランプの光で尊徳が読書するのを見て「無駄遣いをするな」と激しく罵倒します。
菜種油がないと夜の勉学ができなくなりますので、尊徳は自分で菜種油を作る決心をし、堤防で「なの花(アブラナ)」を栽培して目的を実現させます。
また、田植えの時期は捨てられている余った苗を使って用水掘で栽培し、1俵ものお米を収穫しております。

最近はコロナ禍により、飲食や旅行。航空関連企業などは大幅な減収・減益を強いられていることがメディアで報じられています。
ビンチはチャンスと捉え、自社事業の運営を見直す良い機会である、また旅行業大手のH I.Sのように蕎麦屋を展開するなどの新規事業に挑戦するなど、前向きに捉えることもで危機を打開し、会社成長の一役になります。

また、保有する施設・資材や資産を分析して、コロナの影響を受けずに利益が上げられる施策を見つけてトライすることも、新たな発見や道が開ける可能性があるのではないでしょうか。

客観的な第三者の目も有効であると考えられ、税理士やコンサルティング会社、外部顧問などの専門家に依頼して、分析や助言、アドバイスを受けることもお勧めします。

3 負債は返済計画を立て、徹底した節約により完済する

18歳頃から徹底した節約により家計を改善させる才能を発揮するようになった尊徳は、20歳で生まれた家の再建に着手します。
その資金を得る方法は、質入れしていた田畑の一部を買い戻して小作に出すというものでした。
企業でいえば「下請け」を利用したのです。

再建に成功した尊徳は地主として農場経営に携わる一方、小田原藩の武家奉公人としても働き始めます。
このことが後に小田原藩士の借金財政を救うことになります。

22歳の時に困窮する母の実家である川久保家に資金提供、翌年は二宮総本家再興のために基金を立ち上げています。
このような才覚が小田原藩士にも伝わり、小田原藩の家老服部十兵衛から服部家の家政の再建を命じられます。
そこで尊徳は、5年間の返済計画を立てて徹底した節約により完済することを約束して実行するとともに、服部家の財務整理なども行い、千両あった負債をゼロにするどころか300両の余剰金まで得ました。
余剰金は全て服部家に贈り、尊徳は一銭も取りませんでした。至誠の精神をモットーとした対応です。

負債を返済する場合、必ず期限を切った返済計画を公言し、苦しくても節約で乗り切る手法で藩士の苦境を救った手腕は、現代でも通用するものと考えられます。

4 信賞必罰の事業運営をする

尊徳が村人の開墾作業を視察していた時に、村人の一人が猛烈な勢いで開墾しているのを目にします。
目立って認められたいという魂胆を見抜いた尊徳は「そのような勢いで一日中働き続けられのか。お前は他人が見ている時だけ一生懸命に働く振りをしている。陰では怠けているのだろう。」と怒鳴ったそうです。
村人に対して不正な行動は必罰に値することを知らせたものと思われます。

その一方で、出稼ぎの老人が木の株を掘り起こす地道な作業を毎日続けていることを見て、尊徳は地道な作業がいかに大切かを教えるため「開墾作業がはかどったのは彼が邪魔な木の株を取り除いてくれたからだ」と村人を諭し、通常の賃金に加えて15両の慰労金を与えたといいます。

「信賞必罰」が適正に行われると組織が活性化し、大きなメリットがあることは歴史上でも実証されています。
企業として実施されていないのであれば、検討する価値があります。
公平性を確保するために綿密な準備や計画が必要になります。

5  常に危機管理意識を持つ

尊徳が37歳の時に小田原藩主大久保家の分家である宇津家の知行所(領地)であった下野国芳賀郡桜町(現在の栃木県二宮町物井、真岡市東郷の一部)が荒れ果てているので復興救済を命じられます。
そこで尊徳は現地に赴き、疲弊した領内を復興させます。それ以後もこの地に26年間も留まり、桜町だけでなく周辺諸村の復興にも尽力します。
長い滞在が幸いしたのか、ある時夏が来る前に収穫したナスを食したところ、秋ナスの味がしたので、経験から今年は冷夏になることを予測しました。
そこで村人たちに冷害に強いヒエを大量に栽培させました。
予測通りこの年は冷夏だったため大飢饉となりましたが、桜町はヒエのお陰で餓死者がでず、周辺の村にも分け与え感謝されたといいます。

尊徳が50歳の時には、重病を患っていた大久保忠真藩主に呼ばれて小田原に戻りやはり飢饉に見舞われている小田原を救済することを命じられます。
尊徳は小田原藩の家臣と相談して蔵米を放出し村々を救済します。
尊徳が常に危機管理意識を持っていたことが窺えるケースです。

企業にとっての危機管理は、疎かにすると大きな痛手を被ります。
予測できる事態を洗い出し、必ず対応を検討しておく必要性があります。    
また、これからの企業運営は「共助」が必要になることも考えられます。同業種間のみならず異業種間でもネットワークを拡大していくとで、大きな安全網になると思います。

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